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【伊豆日記】 その3: 1974年5月24日  
【伊豆日記】
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●エッセイ● ひとりで別荘を建てた
               佐藤 仁 【1974年 Burroughs社内報に寄稿】



[1] 土方と自然

地べたに穴を掘る。両足をふん張り、満身の力をこめて ツルハシを振り降ろす。掘り崩されて柔かくなった土をス コップで掘りおこすとき、湿った新しい土の臭いがツーン とぼくの鼻をつく。

穴の深さが40センチになったら図面どおりか形を確かめ、 つぎの穴に取りかかる。穴は全部で4つ掘らなければな らない。これは土台を埋める穴だ。

秋とはいえ、9月初旬の晴れわたった空の太陽が、ジリ ジリとあたりに照りつける。皮膚に汗が吹き出し、玉のよ になり、やがて頭から水をかぶったように一斉に流れはじ める。バケツの水に浸したタオルを絞り、汗を拭う。

そして顔を空に向け、ヤカンを鼻の上に持ち上げゴクゴ ク水を飲む。 へとへとに疲れると、スコップを投げ出し、ご ろりと草の上にあお向けになる。視界はすべて空。白い 雲が浮かんで西の方から東へ流れてゆく。





西は海。この場所からは逆三角形に少ししか見えない。少し頭をおこすと、東には天城山の連なりが青々と続 いている。

土方仕事は思っていたよりも重労働だった。

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けれど体の 筋肉をぎりぎりまで使い切ることが、こんなにも小気昧よ いことだったのか。ぼくが地べたに穴を掘ることは誰にも強 制されたわけではない。 ぼくの労働は多分、誰の役に も立たないだろう。この労働にぼくは何の代償も期待はし ていない。

ただ、思い切り汗をかき、やがてぽくの体が水を欲し、ヤ カンから注がれゴクンと飲み込まれた水が、喉の奥をひと つのかたまとりとなって胃袋へ移動してゆくのを感じると き、確かにぼく自分の生を感じることができる。

ひと休みするとまた作業にとりかかる。

ここの場所には、刻まれた時問はない。ただ朝があり、 空間としての昼間があり、そして夜があるだけだ。 逆三 角形に見える西伊豆の海の方角に少しだけタ焼けを残 し太陽が沈むと、やがて遠い天城の山々の肌に谷の底 から闇がせり上がっていく。山際と空の区別しかつかなく なるころ、このあたりも夜の気配に包まれる。

拾い集 め焚木に火をつけ、飯盆で飯を炊く。これから車の中で 野宿だ。



道具を片付け、石油ランプに灯をともし、昼間タ食が済むと、車の中で助手席のシートを倒し毛布にく るまる。ランプの灯でカミユなんかの本を読んだり、明日 の段取りに思いをめぐらしたり、そしてやがて眠る。

土のにおいは深い夜のにおいに変わる。

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[2] 佐官屋と翁たち

朝が明ける。 今日は、佐官屋になる。 砂利と砂が必 要だ。セメントは1袋ある。車の後座席のボルトを抜い てシートをそっくり取り外すと、スカイライン2000GTは、 屋根付トラックに早変わりする。そこへ 大きなポリバケツ を2つ積み、5分ほど走って浜へ出る。

防波堤と河口の間で砂利と乾いた川砂を積めるだけ積み 込む。本物の貨物車でないから堅めのサスペンションも 見る見る沈んでゆく。小さなバケツにすくい運ぶのだが、 これがけっこう骨が折れる。ひと汗かくたびに海に飛ひ込 んでひと泳ぎする。

山に帰り、道路の脇でコンクリートをこねる。セメント、砂、砂利を 1:3:6 の割合で混ぜ、懸命にこねる。ふと 気付くと、10メートルほど隔てた村道にお爺さんとお 婆さんが並んで立ち止まり、こちらを見ている。山仕事 の帰りらしい。





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二人は同じように背の枠木に焚木の束をしょっている。 この辺りは、砂利道でつづれおりの村道が1 本だけ通 っているのだが、人はめったに通らない。二人は腰に手 を当 て首をかしげるようにして、しばらくこちらの様子を 眺めている。何かよほどめずらしいものを見るような面持 ちである。

「どこから来たのかね?」 とお爺さん。

「東京からです。」 と私...

「何をしているんだね?」 とお婆さん。

「景色いいんで、この辺に土地を買って小屋を建てよ うと思うんです。」 と私...

ぽくのその答えは、彼らの疑間を十分には解いてはいな いようだ。二人は依然としてけげんな表情を変えなかった。



ぼくも困った。そういえば、なぜこんな伊豆の山の中にた った一人で小屋なんか建てることになったのか、自分自 身にさえ、それほど手際よく説明なんかできないような気 がし始めたからである。

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[3] 旅人と土地買い・その1

話は4年ほどさかのぽる。 学生時代、最後の夏休み、 8月も終りのころである。ぽ くは毛布2枚をポンコツ車の トランクにほおり込み、あて先のない感傷の旅に出た。

ゴタール監督の 「気狂いピエロ」 のフエルディナンド君 を気どって。

夜の国道1号線を下って、小田原から左に折れ、海岸 線に沿って南西に走った。そして真鶴、網代、稲取と、 伊豆 半島の海沿いに点々と野宿しながら、気ままに泳 ぎ、気ままに走った。

伊豆といえば、昔から観光地の代名詞のように考えられ ていた。熱海、伊東、川奈、白浜と、東伊豆一帯はす でに 観光資本に食い荒らされ俗化してしまった。





そこにはホテルのビルが無数に林立し、まるきり会社や町内会 の慰安旅行のイメージである。

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伊豆といえば、昔から観光地の代名詞のように考えられ ていた。熱海、伊東、川奈、白浜と、東伊豆一帯はす でに 観光資本に食い荒らされ俗化してしまった。そこに はホテルのビルが無数に林立し、まるきり会社や町内会 の慰安旅行のイメージである。

けれど、半島をぐるりと廻って西伊豆へ一歩足を踏み入 れると途端に、そこは寂れた漁村や山村のたたずまいと なる。

石廊崎を西に廻って蛇石峠をぬける辺り、136号線は 国道 だというのに道はひどい。責物石ほどの大きな石 が平気でゴロゴロしているのである。それでも、37年式 のポンコツ ダットサンはフロント・アクスル付近から ゴトゴト音を出してギシミながら走り続ける。





峠をぬけると、急に眼前に西伊豆の海が開けた。特有 の小さな湾。底に白砂のある東岸の 淡い白を溶かした ような水の色に較べ、あくま でも鮮烈な青そのものの海の 色。海の際まで せり出した豪壮で彫りの深い岸壁の連なり。

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ぼくは天城の山並みを背に立っている。 劇的でしかも重 く動じ難い大自然。 ぼくはその情景にひたりきりたかっ た。 そして、もしふたたび都会へ戻らなければならないと したら、できれ、その情景を自分で所有してしまいたかっ た。








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[4] 旅人と土地買い ・ その2

さて、何十分かそうして立っていると、やがて、そういった 詩人的情念とは別のところで、もっと通俗的でイヤラシ イ打算的プログラムが頭の中を走りはじめていた。 この辺は鉄道に見捨てられた土地だ。道路だって今し がた通ってきたようにひどいものだ。まるで陸の孤島だ。 今ならきっと土地は安い。

しかし近々必ず値上がりするに違いない。 現に修善寺 から土肥へぬける船原峠は目下工事中と聞く。伊豆ス カイラインが遠笠山を回って、そのあたり まで延びてくる かもしれない。

そうすればこの辺は絶好の別荘地となる。だからこの景 勝を観光資本が見逃しておくはずはない。








“別荘” という言葉の響きは豪勢でキザで何か 特権皆級の贅沢のようなイメージがする。しかし、あと4、 5 年 もしたら事情は必ず変わるに違いない。
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自家用車、別荘。もし10年も前なら、いわゆる庶民に とってそれらは夢のような話であった。しかし、池田内閣 の高度成長経済政策は、1960年代の後半、何はとも あれ現にこうして自家用車を貧乏学生のオモチャにして しまった。

だから、あと5年もすれば、週休2日制が一般的になる 時代がくる可能性は否定し得ない。急上昇を続ける経 済成長のグラフがその曲折点に至ったとき、日本国民に とって “ひま”、という問題が必ず顕在化してくるに違い ない。

そうなると、その暇をどう消化してゆくか。月に一度ぐら いは別荘にでも出かけなければおさまらなくなるのではな いか。 だから、別荘地の需要は必ず増大する。





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一昔前の車のように別荘が普及する時代が必 ずくる。 したがって、この辺リの土地への投資はきっと儲かるに違 いない。 1969年晩夏、ぽくの「気狂いピエロ」風一人 旅は、妙な打算的インパクトを伴う結末となった。

それから数力月の後、ばくは西伊豆にある土地を見つ けた。ある農協がある山を買い取り、ブルドーザーを人 れて段々畑にし、みかん栽培を計画した。 ところが途 中で、みかんの生産過剰から相場が暴落し、その計画 は中断された。 その土地を661u 平米単価758円 で、地元の不動産屋の仲介で手に入れた。

投資には絶好だと確信はしていたものの、よく考えてみ たらぼくには投資で儲けるほどの資金があるわけではな い。 いろいろ工面してともかく661u分である。





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だから人に売る余地はない。そこで、儲ける話はきっばり とあきらめ、のんひり自分で使って楽しむことにしたのであ る。

ぼくの “別荘地” は、西伊豆のほぼ中ほど、土肥と堂 ケ島の中間にある宇久須という小さな半農半漁の村に 接していて、天城から流れ出る宇久須川が遠浅の海水 浴場に注ぐ河口から1.8kmほど上流に行き、渓流が作 る谷に面した小高い丘の南斜面にある。ここは人里から 500mほど離れている。



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[5] 大工と山小屋

さて、土地は手に入れたものの、テレビのコマーシャルの 何とかランドの分譲別荘地にそびえているような豪華な ビラを今すぐ建てる資金はぼくにはない。ひがみかもしれ ないが、ああいう気取った造りはぽくの趣味ではない。

そこで、ほくはぼくなりの素晴らしい別荘地利用法を考え たのである。

まず、夏の海水浴や磯づりの基地として2、3人の泊ま れる山小屋を造りたい。しかもそれは設計から、材料の 加工、運搬、組立まで全部コツコツ一人でやるのだ。

そして、その小屋を飯場として、将来は20畳ぐらいの広 さの部屋と吹き抜けのある三角屋根の二階建ての山荘 を造ってみたい。

かなり大それた突飛な計画のようであったが、第1次の 計画、山小屋の建設はすでに完了している。






かなり大それた突飛な計画のようであったが、第1次の 計画、山小屋の建設はすでに完了している。



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1971年4月、小屋の図面作成を終了する。耐力 壁構造とし、部材はあらかじめ加工しておき、 プレハブ形式で現地にて組み立てるものとする。

5月、段々畑の斜面に道を切り開き、各段に丸太を 埋めて皆段を作る。平坦な土地を測量し、土台の位 置を決める。 このとき、オリーブ、梅、次郎柿、李、梨、 甘夏みかん、 温州みかんの苗木を植える。

6月、7月、8 月、東京の自宅で床材、壁材、屋 根材、柱など各ユニットを作成する。

床は45X45mmの 枠組に9 mmベニヤを接着、壁材、屋根材は45X35 mmの枠組に 4mm耐水ベニヤを接着する。



すべての部材 に断熱杉として45mm厚グラスファイバーを入れる。柱 は70x70mmの杉材。すべて孔明け、 塗装工程まで行ない仮組みを行っておく。

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9 月、各部材を分割して車の屋根に積んで運ぶ。土 台の穴を地中に掘り、型枠にコンクリートを打ち、羽子 板ボルトを埋める。






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11月、床材、壁材、屋根材を取り付ける。−般の建 築工法では屋根工事から先に行なわれるが、足場を組 んでないので、下から順に組み立てていく。




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新聞でみたある分譲別荘地の広告に、こんな コピーが載っていた。

『月に一度は伊豆の人』

ぼくも是非、このくらいのペースで楽しめたら いいなと思っているのである。
















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[エッセイ] ひとりで別荘を建てた
1974年寄稿 佐藤 仁

[高千穂バロース(株)の社内報に寄稿した エッセイ に、
写真の一部を追加したものです。]







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